月刊『日本橋』2014年5月号 No.421

今月の特集 ■花火

日本の夏に欠かせない風物詩、花火。日本における花火の歴史を辿ると、古代の通信手段として使われた狼煙にゆきつくが、現在のような遊びや観賞用の花火が普及したのは、江戸時代から。江戸の花火といえば、現在の隅田川花火大会のルーツである両国橋を中心とした〈両国川開きの花火〉。日本の花火の歴史と共に、両国花火の変遷を辿る—。

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二代歌川広重・初代歌川国貞「江戸自慢三十六興 両こく大花火」

納涼船で花火を楽しむ女性たち。江戸後期の風俗誌『守貞謾稿』(1853刊)には、旧暦5月の川開きの項に、「今夜大花火ありて、後、納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根舟に乗じ、浅草川を逍遙し、また両国橋下につなぎ涼むを、橋間にすずむといふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く」とある。

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(上)歌川貞秀「三都涼之図 東都両国ばし夏景色」
(下)初代歌川広重「新撰江戸名所両国納涼花火ノ図」

江戸の人々が花火を楽しんだ両国の川開き
『東都歳時記』の五月二十八日の頁には、「両国橋の夕涼今日より始り、八月二十八日に終る。ならびに茶屋、見せ物、夜店の始にして、今夜より花火ともす。逐夜貴賎群衆す」とあり、両国の川開き花火は、享保18年(1733)5月28日に、八代将軍・徳川吉宗が大飢饉の追悼のために大川(隅田川)で水神祭を催し、その際に花火をあげたことにはじまる。以来、江戸の年中行事となり、花火見物と夕涼みの人々で賑わった。

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楊洲周延「両国川開の花火」明治13年(1880)
中央区立京橋図書館 蔵

江戸から明治、花火の色の変化
江戸時代の浮世絵と見比べると、明治時代の浮世絵に描かれる花火は、色のバリエーションが増えていることがわかる。江戸時代、火薬に使われた酸化剤は硝石(硝酸カリウム)のみ。黒色火薬(硝石、木炭、硫黄からなる三成分混合火薬)のみで作られる江戸の花火は橙色一色で、昔の花火師たちは、少しでも違った色や型を作るために苦心した。明治時代になり外国から化学薬品が輸入されたことで、彩り豊かな花火が誕生。明治10年(1877)以降、マッチに使う塩素酸カリウムが輸入され、これを酸化剤に使用するようになると、赤、黄、緑など花火の色彩は豊かになった。

(画像:国立国会図書館デジタルコレクションより)
●特集はまだまだ続きます。ぜひ本誌を手に取ってご覧ください!

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【目次】
■読み物
どうなってるの? 江戸のこと日本橋のこと218/M・シェレンバウム
シンボーの日々是好日171/南伸坊
江戸平成川柳歳事記《茶》/松本充代
粋人有情《江戸っ子と粋》/立川談四楼
其角堂コレクション《端午に因む鯉魚のはなし》
まちの人のエッセイコーナー第20回〈とみしま・その1〉
日本橋食べもの歌留多(14)向笠千恵子
気ままなスケッチ/小川幸治
江戸っ子亜土ちゃんの日本橋ブギヴギ(12)

■人とお店
常連さん〈日本橋ゆかり〉
新お徒歩日本橋繁盛記(137)/一色九月
逸品《喜代川》
人物語242《橋本敬さん》

■インフォメーション
豊年萬福塾
お江戸日本橋マップ
三越・髙島屋
女流寄席
いらっしゃ~いのコーナー
5月のGALLERY&THEATER
かわらばん
日本橋らいんあっぷ
誌上市場
第28回野菜くだものツアー
江戸東京やさいプロジェクト

■エトセトラ
今月のプレゼント
5月の西洋占星術/ルネ・ヴァン・ダール・研究所
旧暦ごよみ/暦ことば
こちら編集部・おたより
今月の表紙/悳俊彦・目次

【今月の表紙】
一勇斎国芳
「牛若丸と弁慶」大判 おもちゃ絵 天保(1830〜44)初期 海老林版

5月号【連載】逸品
喜代川 うな重

日本橋の㐂代川といえば、かの有名な文人、宮川曼魚の生家である。鰻の文字を二つに割った先生は、㐂代川初代渡辺伊三郎の次男で、深川で宮川といううなぎ屋を営むかたわら、社会風俗をテーマにした随筆を発表。粋な文人としてならした——。

㐂代川の創業は明治7年。うなぎは、お江戸日本橋らしく、江戸前の気風を守っている。蒸しのきいた身はふわっと柔らかく、タレは辛め。ほどよく脂が落ち、さっぱりといただける。備長炭で職人が一枚一枚丁寧に焼き上げており、まず、強めに焼いてからじっくり蒸して、もう一度焼く。うま味を逃さないよう、二度目はパッと一気に。これも江戸前の伝統がなせる技。時を経ても、変わらない。(続きは本誌で!)

5月号【連載】人物語 橋本敬さん

昨今、話題になっている日本橋橋上に架かる首都高速道路。1964年の東京オリンピックの前年に完成してから約50年、老朽化に加え景観面からもまちでは撤去の声が高まっており、昭和通り上の1号上野線も含め、ついに撤去に向けて署名活動を開始するという。日本橋の各種団体が一丸となり取り組むが、主なメンバーは名橋「日本橋」保存会、日本橋一の部連合町会、日本橋の各ロータリークラブ、そして、〝日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会〟である。

1999年、日本橋界隈は勢いを失っていた。江戸から続いた百貨店〝白木屋〟の後身であり、日本橋のランドマークの一つでもあった〝東急百貨店日本橋店〟が閉店。その2年前の1997年には、新川の茅場町タワーに本社を置いていた山一證券が破綻していた。「そんな中、明治座の前社長・三田政吉さんが、日本橋地域の賑わいを100年かけてでも取り戻そうと設立させたのが、日本橋ルネッサンス委員会(略称)です。現在は、首都高速撤去の活動の他、日本橋川の清掃活動、東西連携メトロリンクバスの運行、日本橋かるた大会など、日本橋の賑わいを創出するさまざまな活動を展開しています」と、語るのは当会会長の橋本敬さん。日本橋室町の日本料理店、〝日本橋とよだ〟の四代目である。(続きは本誌で!)

5月号【連載】江戸っ子亜土ちゃんの日本橋ブギヴギ 12話

♪意味不明

エート〜、今回もまた意味不明、ニューニュー不断のお話聞いてくらたい。よくニューヨークで音楽活動(?)して帰ってきた人が、
「NY帰りでサー、時差ボケやらで参ったよ〜」
と嬉しそうに話してくれます。
「フン、なにさあたいだって先週NY帰りなんだぞーッ」
と言い返したりしちゃう(本当は長野の山奥帰りなんだけんど……)。エへ! 先日も《地元民の為の国際暗号解読会》から帰ったばかりなのです。チョット意味がよくわかんなーいの会でしたが……。
帰り道チョト首かしげて今日のは一体何だったのかしら……と、うつむきつつ、口笛ふきふき家路へ……。やっぱ少しヘンテコリンは父親ゆずりです(お父ちゃんゴメン)。
人形町にある日本橋小学校の筋入ったところの昔ながらの香り高き花梨というカフィー専門店に行って、あんころもちあるか? と聞いたり、水天宮の有名中華屋さんに行って、オムカレーありますか? と聞いてヤな顔されたり。火野正平さんじゃないけど、オムライスが大好きなのです、私。(続きは本誌で!)