月刊『日本橋』 2015年6月号 No.434
■今月の特集 江戸の結婚
結婚式を挙げない“ナシ婚”派もいるなど、結婚観が多様化している現代。けれど、やっぱり通過儀礼は大切!? 江戸時代の結婚事情をひも解いて、現代の婚礼諸相との違いをみてみよう! まずは江戸時代の浮世絵や其角堂コレクションから、婚礼にまつわる貴重な資料をご紹介——。
▲一勇斎国芳「婚礼色直し之図」泉市版/弘化四年(1847)頃
裕福な家の娘の婚礼。衣桁には色とりどりの着物が掛けられており、白無垢から赤地の盛装にお色直しの最中。
▲(右上)鈴木春信「春信婚姻之図」明和(1764〜1772)中期 頃
(左上)「岩城枡屋のたとう紙と真綿の」江戸後期頃
もともとは防寒用や埃除けに使われていた綿帽子だが、後に装飾化し、婚礼においては“挙式が済むまで顔を見られないようにする”ために被る。写真の綿帽子は幕末のもの。
(下)佐山半七丸著・速水春暁斎画『女子風俗化粧秘傳』文化10年(1813)
当時のビューティ雑誌。女性のお化粧・髪形・着こなし・美容法などについて書かれており。婚礼時の綿帽子の図も。
▲(右上)「帽子針」江戸後期頃
前ページで紹介した綿帽子を留めるための針。
(左上)「枝珊瑚の簪」江戸後期 頃
(下)「鼈甲の髪飾り(写真奥から笄、簪 、櫛、簪)」江戸後期 頃
●江戸の結婚事情
書き手/歴史家・安藤優一郎
■両家の釣り合い
江戸時代は身分制社会の時代である。そのため、違う身分どうしは結婚できないという原則が男女の前には横たわっていた。武士なら武士、町人なら町人というように、結婚するのは同じ身分どうし。違う身分どうしが結婚する場合は、同じ身分に変身しなければならない。町人が武士の家に嫁ぐ場合は、武家の養女という形で武士身分となることが要件とされていた。
しかし、同じ身分だからと言ってスムーズに結婚できたわけでもない。そこでは家格がモノを言った。同じ武士でも、上級幕臣である旗本と下級幕臣である御家人は婚姻関係を結べない。双方の家が釣り合いの取れた家格であることが暗に求められていたからだ。よって、両家の釣り合いを取るため、家格の高い武士の養女として嫁ぐ例もままみられた。
町人はどうか。一口に町人と言っても、商人から職人まで職種は多種多様だが、商人の場合で言うと、双方の家が釣り合いの取れた資産規模であることが重視された。釣り合いの取れたという意味では、武士の場合と事情はまったく同じだったのである。
そうした前提のもと、商家の結婚事情をみていこう。
★安藤先生の解説は、
■婿養子と持参金
■「家」の強さ
■商人も結婚式
と続きます。ぜひ誌面でご覧ください!
●あんどう・ゆういちろう
1965年、千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業、早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。JR東日本大人の休日・ジパング倶楽部「趣味の会」、東京理科大学生涯学習センター、NHK文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『30ポイントで読み解く吉田松陰の『留魂録』』(PHP文庫)『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)など。
〈その他の特集目次〉
●〜『春信婚礼之図』に見る〜江戸時代の婚礼図式
鈴木春信「春信婚姻之図」(明和中期)。七枚からなる揃い物で、そのうち〈婚礼〉の様子を描いた一枚を5ページで紹介したが、通して見てみると、男女の出会いから出産まで、当時の婚礼の流れがよくわかる!
●お江戸で結婚! 日本橋のオシドリ夫婦♥
カモ目の水鳥であるオシドリ。いつもオスメス一緒に泳いでいることから仲の良い夫婦に例えられる。ちなみに、派手な冠羽など美しい色彩の羽毛がオスで、色彩の地味な方がメス。鳥のオシドリは毎年ツガイを変えるようだが、日本橋のオシドリ夫婦は末永くラブラブのご様子。
馴れ初め、結婚式、夫婦円満の秘訣など……お話をうかがった!
割烹・松楽/石原康弘さん、わか子さんご夫妻(結婚50年目)
洋食・小春軒 /小島幹男さん、絹子さんご夫妻(結婚53年目)
うなぎ店・㐂代川 /渡辺昌宏さん、恵理さんご夫妻(結婚3年目)
●日本橋で結婚 準備&挙式
・貞観年間より日本橋の地に鎮座する神社で挙式《福徳神社 〜芽吹稲荷》
・和婚専門のブライダルブティック《サンコレクション》
・新婦はもちろん、新郎のブライダルに向けたトータルケアを《ヘアサロンONOiki店 日本橋本店》
・シティホテルで華やかな挙式を《ロイヤルパークホテル》
★ぜひ小誌を手に取ってご覧ください!
【今月の表紙】
一勇斎国芳 雅業平東下り 大判三枚続きの内左二枚
天保(1830〜1844)後期 若狭屋版
【6月号連載】逸品 すず航 天バラ
茅場町は坂本町公園近くの路地に佇む、すず航。美しい塗りのカウンターのなかでは、ご主人の鈴木晴也さんが真剣なまなざしで天ぷらを揚げている。もともとは日本料理の職人だったが、丸の内の名店〈天政〉の天ぷらに惚れ込み、この道へ。平成17年に自宅だったこの場所に店を構えた。屋号の由来は、曾祖父・幸夫さんの名字と名前から一文字ずつ、鈴と幸で〈スズコー〉。そこに船出の意味を込めて〈すず航〉とした。
さて、すず航の天ぷらは、卵の黄身を多めに使った衣で、色は濃いめ。サクサクとした中にもフワッとした優しい口当たりだ。揚げ油は綿実油をベースに、香り付けに胡麻油を足したもの。「天ぷらは食材と油、衣の関係がとても繊細です」と鈴木さん。揚げ油の状態には常に気を配っており、昼だけでも4〜5回は交換している。“常に新鮮なものを美味しく”というのがモットーなのだ……(続きは本誌で!)
【すず航】
茅場町2‐1‐14 電話3666‐3336
11時〜14時、17時〜22時 日祝休
《写真》天バラ(夜6900円以上のコースの一品)
【6月号連載】人物語255 悠玄亭玉八さん
浅草見番の幇間—
浅草見番に籍を置く〝幇間〟の一人、悠玄亭玉八師匠。幇間とは、宴席などの座敷で話や芸で客と客の間を取り持つことを生業とする者で、もとは織田信長の時代に、芸能の世界で太鼓打ちの名人が太鼓を持つのに秀でた弟子を連れて歩いたことから派生した言葉という。玉八師匠は八王子出身。養蚕農家の三男坊で、祖父、父と三代そろってラジオで落語を聞くのが大好きな少年だった。「古今亭志ん生師匠が大好きで。生で高座を見ていたことが自慢なんです」と玉八師匠。高校卒業後は、理研合成樹脂に入社。「当時はお銚子ではなくフラスコを振ってたんですよ(笑)」。理系の2部大学で学び研究職の道を歩むはずが、本当にやりたいことをやろう! と慶応大学通信学部でフランス語を学び、昭和42年、22歳で仕事を辞めて新劇の東京芸術座に入団した。新劇運動が盛んなりし時、4期生としてゴーゴリ『検察官』、シェイクスピア『ベニスの商人』、『国定忠治』はじめ日本の創作劇、古典劇など和洋問わず演劇に情熱を傾けた。ここで出会ったのは奥さまの勢津子さん。「夫は落語が好きだったので劇団で師匠って呼ばれていました」と勢津子さん。結婚後は、勢津子さんは小学校教員の仕事につき、二人の娘を育て校長も務めたそうだ。
新劇の世界で11年間を過ごした玉八師匠。30代となり、やはり大好きな寄席の世界で活躍したいと考える。「落語家なら古今亭志ん生師匠、色物なら柳家三亀松師匠のような芸を目指して生きていけたら最高だなと思ったんです」。そこで、新内家元の柳家紫朝師匠に弟子入り。浄瑠璃と三味線を学び、和の芸の基礎を培った……(続きは本誌で!)
【6月号連載】シンボーの日々是好日184 南伸坊
よびだししんぎかい略して、よびしん。
こどもの頃から、お相撲の中継が好きで、家にTVがないから、近所の食堂で前頭の土俵入りから、結びまで店の隅でびっちりねばった。
こども心に、タダ見じゃ申し訳ないと思うから、店先に置いてある大きなガラスの瓶の中の、塩せんべいを一枚五円だかで売ってるのを、一枚きり買って、それを虫が葉っぱを食べるみたいにちびちび食べていた。
なんとか追い出されないようにと願いながら見ているので、見られる時間は、全てが見たい画面になる。
だから、呼び出しが、おすもうさんを呼んでいるところも、行司が口上をのべているところも、すべてを食い入るように見ているのだ。
お相撲のない月には、それのマネをしたりするのも楽しかった。庭掃除をさせられると、まるで土俵の砂をならすように、蛇の目をととのえたし、仕切り線をハッキリさせるときの呼び出しの動作をそのまま再現した。もちろん行司の口まねもした。あの頃は、弓取り式も、土俵入りも、全部本式にまちがわずにできた。
当時から「すもうって何度も塩まいたり、立ったりすわったりで、なかなか勝負しないからじれったい」という人はあった。
だって、その間に力士の仕切りのクセとか、塩のまきようとか、呼び出しや行司の所作とか、いくらでも「見るべきもの」はあるじゃないか、とコッチは思っているから、とても不思議な気がしていたものだ……(続きは本誌で!)